肌の上をぬるりと何かが流れていく。そのあまりの不快感に眉を顰めた。それと同時に、ああ自分はまだ完全に目が覚めていないのだと頭の隅で何かが警鐘を鳴らしている。
それでも重たい瞼はなかなか持ち上がらない。その間にも不快な何かが自分の体を舐めて行くように感じていた。
目覚めてはいけない。
何かが警鐘を鳴らす。
「……」
けれどこのままではいけないという気持ちもある。
「……」
気持の大半はこのまま…気持ち悪い何かを我慢してでも眠っていたいと、痛みを耐えてでも目を閉じていたいと願っていた。
しかしほんの少しの「何か」が自分を突き動かしている。『早く目を覚ませ』と。
心の奥底から聞こえてくるその声に、しかたなく重たい瞼を押し上げた。
「……」
焦点が合い始めた瞳にまず映ったのは、赤く焼けた石。
なんでこんなに石が赤いのだろう？と疑問に思いつつ空へと視線を向ければ、いつもは青い色が広がっているそこもまた…赤く焼け爛れていた。
実際には空一面に浮かんだ雲に地上の色が映りこんでいたように見えたらしいのだが、その時には空が真っ赤に燃えているように見えていた。
なんだ？と見たこともない空の色に愕然としている所に、びゅう、と肌に直接吹き付けて来るぬるい風を感じて眉を顰めた。
「……何…だ？」
嫌な予感ばかりが胸を覆う。見たくない、でも見なくては何も始まらない。そんな焦燥感に駆られて漸く定まった瞳であたりをゆっくりと見回した。
まず目に付くのは、先ほども視界に入ってきた焼けた石。そして赤い空。
そして…。
「これは…」
痛む体を無理やりに起き上らせ、開けた視界で見たものは、まさしく「地獄」と言ってもいいような光景だった。
所々で煙が上がっている。焼けているのは本来熱を持つはずのない石と、記憶の中では青々とした木々を茂らせていた森の残骸。
そして…自分が住処の一つとして毎日のように通っていた「城」。
「……」
白亜の城としてその優美さは各国に知られ、一度は訪れてみたいと言わしめた優美な城は…真っ黒に焼け爛れた「何か」に変貌していた。
湖を挟んだ対岸にある城下町からも大量の煙があがり、ぬるい風が吹き付けてくる。その風の中には、人々の悲しみ、怒りという負の感情が含まれているようで、勝手に体に震えが走った。
しかし震えている場合ではないと、小さく震える体を無理矢理意思の力で抑えつけ前を向いた。
自分にはまだやるべきことが残っているはずだ。
「……っ」
小さく…守るべき相手の名前を呟いて、焦土と化してしまったかつての美しい森を抱いていたはずの国を歩く。
ただ…想う相手が無事であることだけを祈りながら。
◆
大陸の海側に位置する「オーブ」は、国土は小さいものの、あらゆる面において豊かな国として知られていた。
海洋航路の要である活気ある港町を有し、さらには陸路の要である街道沿いのオアシスを有する国。
海と陸、両方を兼ね備えた国はそう多くない。そして海の恵みと山の恵み、両方を備えたオーブは他国から喉から手が出るほどに「欲しい」国の一つでもある。
それ故に自国を守る備えは、列強の大国に及ばぬほどの備えを持っていた。だがそれ以上に「オーブ」が列強の国々と肩を並べる「強国」とさせている訳がもう一つだけあった。美しい国として知られる「オーブ」。だがそれ以上に有名なものがある。
「難しい顔をして何をしているんだ？」
「っ、あ、アスランっ!?お、おどろかさないでっ！」
書き物をしていたキラは、真横から突然かけられた声にびくりと肩を震わせてしまった。
人の気配には聡いはずなのだが、全く気付かなかったことに歯噛みしてしまう。しかしその相手が「アスラン」だと知って、キラは内心で大きな息を吐いた。安堵の息だ。
同時に「またアスランの近づく気配に気付けなかった」と気落ちしてしまう。
「キラ？複雑な顔をしているぞ？」
もやもやとした気持ちでいると、キラの気持ちを正確に読み取ったらしいアスランが、笑いながらキラの額をこつんと軽く突いてくる。
やめて、とキラはそんなアスランの手を掴んでむう、と軽く彼を睨み付けてしまった。
「もう、子ども扱いしないで！」
精いっぱい虚勢を張りつつそう叫んだのだが、目の前のアスランは楽しそうに笑っているだけだ。
笑わないで！と必死になって訴えても、やはり楽しそうに笑うばかり。その態度があまりにも続くので、キラもへそを曲げたくなって、ぷいっとアスランから視線を逸らしてしまった。
「キィーラ？そういう態度を取るということは、まだまだ子供だっていう証拠だぞ？」
「っ……」
「まあ、実際にお前はまだ子供だが」
くく、と小さく笑ったアスランの腕を、キラは軽くぽかりと拳を振り上げていた。けれど叩けたのは一度だけ。二度目に振り上げた拳は簡単にアスランによって掴まれてしまう。
「キラ？暴力はいけないな」
「っ、ぼ、暴力じゃないよっ！」
「ふうん？じゃあ、俺を叩いたのは何でだ？」
「っ……」
くすくすと笑いながら問いかけてくるアスランに、キラは明確な答えが示せない。何しろキラ自身も、アスランを「叩いた」ことは暴力の一環だと分かっていたからだ。それにキラ自身がまだまだ「子供」であるという事実もある。
何もかも自分の行動や言動の先を行くアスランに、キラは小さな嫉妬じみたものを浮かべてしまった。
アスランに嫉妬をすること自体おかしいことは分かっている。けれど嫉妬せずにいられない。
「キラ、またおかしな顔になってるぞ？せっかく可愛い顔をしているのだから、笑っていたほうがいい」
「……」
可愛いって言うな！と叫びたい。だが言えば言ったでまた言いくるめられるのは目に見えている。
キラは悔しいけれど口を出せない自分の不甲斐なさにきゅっと唇をかみしめていた。しかしキラのその手は、先ほど叩いたアスランの腕をぎゅっと握りしめている。
アスランの存在を感じながら、キラは「どうせこういう行動も子供っぽいって言うんだろうな」とぼんやりと考えていた。けれどアスランは何も言わずにキラの行動を許してくれる。彼の体に触れることに対して何の咎もしてこない。
その事に安心したキラは、ほっと息を吐いていた。だがそれと同時に急に眩暈を感じて、ふらりと体が傾きそうになる。
「キラっ!?」
「あ…」
しかしそんなキラの体をアスランが支えてくれた。それどころか小さなキラの体を抱え上げてくれる。
「無理して起きているからだ。また熱が出てるぞ？」
「……っ、でも」
「でも、は聞かない。いつも言っているだろう？」
寝てろ、とそう言ってアスランに寝台の上に降ろされてしまうと、キラには寝床から抜け出す機会がなくなってしまう。せっかく今日は気分も良くて、絶好の勉強日和だったのに、と。
「キィーラ？言っているだろう。そういうことは、もう少しお前の体力が付いてから、と」
そう言ってキラの亜麻色の髪の毛を撫でてくれるアスランの表情はとても柔らかい。先ほどまでキラをからかって遊んでいた表情とはまた違った顔をのぞかせている。
優しい瞳で自分を見つめてくれているアスランを、キラもじっと見つめていた。
「キラ、ほら…寝る」
それが今のお前の仕事だ。
そう言って髪の毛を撫で続けてくれるアスランは、どこまでも優しい雰囲気でキラを包み込んでくれる。
この人が傍にいてくれれば何も怖くない。そう思えるほどにはアスランの存在はキラにとって絶対で…そして大切なものだった。
頭を撫で続けてくれるアスランの服の裾をそっと握りしめて、寝るまで傍にいてと視線だけで訴えれば、「仕方がないな」という言葉がキラの耳に飛び込んでくる。
「キラは…まだまだ」
子供だ。
くすり、と笑ったアスランの顔がまたキラをからかうような表情に変わる。しかし瞳に込められた優しさは変わらない。
キラもそんなアスランの表情につられるようにそっと口を笑みの形にして目を閉じた。
アスランが傍にいれば、怖い夢は見ない。それを知っているから。
おやすみという優しいアスランの声に導かれるようにキラは深い眠りの中へと落ちて行った。
―「The future of the daybreak」より抜粋ー