暖かい何かを抱き込んでいる。その「暖かい何か」は離しがたくて、ずっとこうして包み込んで自身も温めて欲しいと思うくらいには心地がいい。
（でもそれだけでいいの？）
暖かくて、ふわふわしていて…。
そんな微睡を楽しんでいると、咎めるような声がどこからか聞こえてきた。まるで心地がいいだけではだめだよ、とそう諭されているようで、心地よい何かを抱き込んだ自分は思わず眉根を寄せてしまった。せっかくこの気持ちよい微睡の中で過ごしているのに、どうして邪魔をするの？と。
（でもそれだけでいいの？もっともっと大切なこと、あるんじゃないかな？）
問いかけは続く。
大切なこと？
この微睡の中、心地よい空間に漂うこと以外に自分に必要なものなどあるのだろうか？
大切なこと？そんなもの…
あるはずがない、そう思っている。思っているはずだが、問いかけはまだ続いていた。
（もっともっと大切なこと、あるんじゃないの？君の心に、本当の心に従って）
心…？
何を言っているのだろう？と違う思考が割り込んでくる。
この心地のよい微睡の中にずっといたいと思う自分と、それとは違う「何か」を求めている自分。その両方がせめぎ合っているような感じだ。
それでも、この微睡の中にいれば、ずっとこの「暖かい何か」を守って行ける。
（君の心に、本当の心に従って。「暖かい何か」がどんなものか思い出して）
そうすれば、君は本当に大切なものを手に入れることができるよ。
自分を諭すような言葉に、ついに閉じていた目をそっと押し上げた。
開いた瞳に映るのは、柔らかな春の日差しのような淡い桃色。一面に
敷きしめられた淡い桃色は、腕の中にある「暖かい何か」と同じ優しい気持ちを伝えてきた。
『……！』
そんな空間に響く音。いや、誰かの声…だろうか？
誰？と首をかしげたが、自分の周りは桃色の空間だけしかない。
『…ろ』
「？」
先ほどよりも更に鮮明に聞こえてくる声は、どうやら自分を呼んでいるらしい。
誰が僕を呼んでいるのだろう？と首を傾げたが、その声の主に覚えがない。
『……ラ！』
「だあれ…？」
まだぼんやりとする思考。けれどその声は自分を呼んでいる。それだけは分かった。
そしてその声に応えないといけないと思う気持ちも心の中に湧き上がってくる。
（何か…を忘れてる？これが大切な「何か」なの？）
先ほど自分に問いかけを放っていた声が言っていた「大切なもの」とは、この声の主の事なのだろうか？
（わから…ない）
だが、分からないことがなんだか悔しいし、寂しい。
（寂しい…？）
こんなに心地よい微睡の中にいるのに、どうして寂しいと思うのだろうか？
『キ…ろ！』
「あ……」
不意に飛び込んできた誰かの声。これは確実に自分の事を呼んでいる。
「誰…？それに…」
誰かが自分を呼んでいる。自分自身でさえ思い出せない自分の名前を。
聞こえないもどかしさに、眉間のしわを深くしたところで再び響いてくる声。
『……ラ!!』
「呼んで…もっと、もっと呼んで…！僕の名前っ！」
叫んだ声に呼応してくれたのか、桃色の空間を割って誰かの影が目の前に現れる。
まだ顔は分からない。けれどその影は確かに自分を呼んだ。
『キラ、起きろ』
「……!!」
キラ、確かにそれは自分の名前。そして自分の名前を呼んだのは…。
「アスラン！」
キラは目の前にいる影が、自分の一番大好き人…神様であることを思い出した。そして彼が自分の名前を呼んでくれた嬉しさに、思わずその影に向かって駆け出して行く。
ふわ、とキラの手が目の前の影に触れた瞬間、桃色の空間が裂けた。
「え…？」
かしゃん、と何かが崩れる音。
何？と驚くキラの目の前で、桃色ばかりだった空間がひび割れ…。
「……あす…ら…？」
キラの目に映ったのは、キラが小さな頃から想い続けていた神様であるアスランだ。
さらりと揺れる宵闇の髪がなんだか綺麗だ。そして自分を見つめてくる碧色の光も。
ああ、自分はこんなにもアスランの事が好きだったんだ、なのにどうしてさっきまで思い出せなかったのだろう？と瞬間的に自己嫌悪に陥ってしまう。
だがそれよりも何よりも、アスランの名前を勝手に呼んだので、彼に怒られないだろうか？冷たく「煩い」となじられないだろうか？と心配になる。
「キラ、起きろ」
「……アス、ラン？」
「ああ。そうだ」
だがキラの心配をよそに、アスランは怒るどころか優しい瞳でキラの事を見つめてくれている。
今までにないアスランの態度には驚くけれど、キラはとっさに目の前にいるアスランの胸に飛び込んでしまった。
（って、まさか避けられたりしないよね？）
そうキラが考えてしまうのも無理はない。なにせ、アスランはキラが触れるのを…いや人間に触れられるのをとても嫌っていた。
今までだって、キラが衣を掴むくらいはなんとか許してもらえていたけれど、こんな大胆に飛びつくなんてアスランは許してくれないだろう。
そう思いながらも、大好きな人の胸に飛び込まずにはいられなかった。
（だって、名前…呼んでくれた！）
いつだって「お前」としか呼んでくれなかったアスランが、キラのことを「キラ」ときちんと名前で呼んでくれたのだ。
嬉しくて、キラはアスランの胸に思わず飛び込んだが、アスランは嫌がらずにキラを受け止めてくれる。
「ん……!?」
「漸く…」
「あ、す…？」
アスランが抱き留めてくれただけでも嬉しいのに、くいっと顎を掴まれたと思ったら、アスランの端正な顔が近づいてきた。
美形は近くで見ても綺麗、なんて感想を浮かべながらアスランの顔に見惚れていたら、唇に暖かい感触を覚える。
それが「キス」だということに気付いたキラは、目を丸くしてアスランの顔を見つめてしまった。
「漸く俺だけの「鞘」となったな。キラ…これから先、お前は俺だけのものだ」
「え…？な、何？」
アスランが訳の分からない事を言う。
何のことだが分からないキラだが、アスランがぎゅっと抱きしめてくれる腕の暖かさも、自分を見つめてくれる暖かな光も本物であることだけは分かっていた。
あれほどキラの事を「煩い」とか「面倒」とか「もう来るな」とか…とにかく邪険に扱っていたアスランが、急に態度を変えた理由は分からない。
（でも、アスランが僕をちゃんと見ていてくれる）
それだけは分かった。
「ン……」
「キラ…」
アスランが自分の事を想っていてくれる。それが伝わってくるのが、先ほどから幾度となく繰り返されるキス。熱くて、温かくて、それでいて激しくて…。
もちろんキラは他の誰かとキスしたことなんてないので、アスランとのキスが初めての経験だ。
キスって、こんなに甘いものだったんだ、なんてうっとりとアスランからのキスを享受していると、ふわりと背中を床に押し付けられるのを感じて、閉じていた瞼を押し上げた。
「アスラン…？」
端正なアスランが自分をじっと見降ろしてくる。
さらりと揺れるアスランの宵闇の髪の毛が、彼の形の良い顔の輪郭や唇の端を掠めているのを見つけて、キラはそっと彼の頬に落ちる宵闇の髪に触れた。
「アスラン…？」
しゃべってくれないアスランに、キラはどうしたのか？と問いかけていた。
アスランがこんな態度を取るのは初めてだし、少しキラも戸惑っていた。けれどアスランに触れられる…そして触れてもらえることは素直に嬉しいと思っている。
アスラン、ともう一度彼の名前を呼べば、ふっとアスランが綺麗に微笑んだのが見えた。
「あの…？」
「キラ、だな」
「え？うん。キラ、だよ。って…ひゃっ」
急にアスランの顔が近づいてきたと思ったら、露わになっていたキラの首筋にアスランが顔を埋めてくる。
何？とびっくりしたキラだったが、首筋に感じたぬるりとした感触に体が勝手に揺れてしまった。
―『神様の言う通り 弐』より抜粋ー